下町ロケット⑫第3話、難しいからこそ、やる価値がある


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AERA STYLE MAGAZINEの時の吉川晃司さん↓

 

 

ただ一つの技を追求することの難しさとその美しさに触れる喜びを、肌で感じる

歌手・俳優 吉川晃司 KOJI KIKKAWA

 「俺はずっと歌い続けたい」

 今年デビュー30周年を迎えた吉川晃司さんは、そう語った。

 「ステージは、自分の人生において“聖域”。ファンと対面する場所であり、勝負の場。最低限、チケットの値段を上回るものを作らないと、と思う。ライブは一瞬一瞬、取り戻せない。そのプレッシャーをいつも感じています」

 経験重ねたことでプレッシャーは消えるではないのかと問うと、「それは逆でしょう?」と否定する。

 「若いころは、その勢いとかパッションでクリアできたモノもあるけれど。それが年とともに自分がどんな生き物かわかってきて、追求するものはきりがないのに、それに対してどこまで実現できるかわかるようになってきた。だからどんどんシビアになってくる。周りを見ても、本当に力を持っている連中だけが残り、下手をしたらいつでも蹴落とされる状況。だから常に緊張しています。……なんていいながら、実際は結構呑んだくれちゃったりして

  大まじめに語ったかと思うと、スルリとかわして冗談を言い、場を沸かせる。何をしでかすかわからないやんちゃな青年の面影は、“シビアになった”今も残っている。

 大阪、東京、広島、愛知を巡るアニバーサリーツアーを10月に終えたばかり。シングル曲を中心に、各会場とも1日目と2日目の曲目をすべて変え、2日間で年の数と同じ計49曲を披露するという豪華な内容でファンを喜ばせた。

 「“30年間の集大成”いう感覚はないですね。全然まだ“夢の途中”。セットリストを変えてシングル曲を中心に歌うというコンセプトにしたのは、何よりもファンに楽しんでもらいたい、そんな感謝の気持ちから。これまでのライブとは違うものにしたいという思いがあった。それと、ファンの方に対して、『今回これだけ歌うから、自由に活動しても許してよ』という気持ちもあった。俺、ファンの声は結構気にするほうなんですよ。例えば、バンドを始めると『またそんなことを始めてどうするの?』なんて言われるじゃない? そこは好きにさせてくださいよ、ってね(笑)。その代わり、俺はくたばるまで歌うから。実験的な試みとか、挑戦はちょっと大目に見ててくれないかな~寄り道とか、遠回りってのが大事なんだよね、獣道に入ってみたりとかもね」

 

 

 生涯、歌手。役者としても活躍しているが、「自分は歌い手である」という芯は、この30年間、絶対にぶれたことはない。

 「シンプルなことほど極めるのは難しい。歌に限らず、なんでもそう。この時計も、“正確な時を刻み続ける”というシンプルな目標を追い求め、技を極めた職人が長い時間をかけて作り上げた。その心意気は、触れた瞬間に質感でわかる。自分も音楽を作る職人として、こうしたものを身につけるのはうれしいよね」

 ただひたすらに、誠実に――。刻み続ける時の美しい重さを感じながら、男は歌い続ける。

 

・・・以上「朝日新聞デジタル」より。

 

時計づくりの「匠による手仕事」について語った吉川晃司さん。職人の手仕事に対する尊敬の念は、「料理人」であるお父様に対する尊敬からきているのか?

 

所で「下町ロケット」の佃航平もあくまで「俺たちはメーカーなんだ。作ってこそ、意味がある。あの帝国重工にバルブシステムを部品供給できたら凄いと思わないか。俺はど~してもやってみたい!」と熱く社員に自分の「夢」を語りまくる。技術者魂ですね。

 

すると社員たちの中で、猛反発の声。

事故が起きた時の賠償責任はどうなるんですか?!(唐木田

そう、唐木田のいうことは ご最も。けど、唐木田は案外、責任感が強い、しっかりものだと私は思うのよ。

ひと度事故が起きれば、その損害は計り知れない。会社が潰れてしまうほどの金額を賠償しなければならなくなるのです。損害賠償機構というものにもし加入していたとして、それならば安心してどんどん製造しましょう、という訳にはいかない。

 

対して殿村は言います。

10年後の佃製作所にとって、メリットがあるのはどちらですか?

そう。それが新たな事業に結びつく、広がりのあるものならば 一時的にお金をもらうことは逆にチャンスを逃しているのだ、と指摘します。

今はまだ未知数のものでも、挑戦し続けることで新しい可能性や広がりが出てくるもの、色々ありますよね。

 

ここでリアル社会をちょっと見てみましょう。「プロジェクトX~挑戦者たち」という番組で以前放送していました。東京の小さな町工場から、帝国重工なみの社員を抱える大企業にまで発展した、リアルメーカーの話。(一番上にAmazon商品でその会社をご紹介) 

 

  不況の中、猛烈な勢いで売り上げを伸ばしている商品がある。デジタルカメラ。通称デジカメ。フイルムも現像も必要なし。撮ったその場ですぐに見られ、インターネットで瞬時に遠く離れた場所に送ることができる夢のカメラである。
 1995年、世界で初めてデジカメを大ヒットさせたのは、カシオ計算機の末高弘之率いる若き技術者たち。1987年、最初の製品を発売。しかし、動画の撮れるカメラが流行し始めたため、全く売れなかった。残された大量の在庫と赤字。プロジェクトは解散となり、末高たちも商品に直結しない基礎研究部門に異動となった。
 当時はバブルの絶頂期。楽に一攫千金できる財テクがブームとなり、地道な物作りは時代遅れと言われた理工系の学生が給料の高い金融機関に流れるメーカー離れ現象が発生。製造業は取り残された。
 そんななか末高たちは会社トップに秘密のプロジェクトを結成し、ひたむきにデジタルカメラ開発を続ける。しかし、できた試作品は重さ3キロ、特大の弁当箱並み。商品化にはほど遠かった。
 苦境を乗り越えるバネになったのは、戦後の日本を支えてきた物作りへの熱い思いだった。地道な開発努力はやがて小型化に結実。パソコン時代到来を見事に読み、大ヒットへとつなげていく。
 バブルに翻弄されながら、物作りの夢をあきらめず、デジカメ開発を続けた若者たちの10年におよぶ執念のドラマを描く

 

・・・この会社は様々な理由で社長から「もうお金がないので商品開発は打ち切り!!」と言われ、それでも技術者たちは社長にこそこそと内緒で開発研究に没頭するのです。誰かが見にきたら作りかけの商品をプロジェクトチームの皆で隠してまでこっそり開発を続ける執念。

まるで佃製作所のよう! (徹夜したあたりも)

そういう、技術者の執念、夢にかける熱い想いが、将来の大ヒットを生んだという実話があります。

佃社長は何度も言います。

「俺たちは商品開発型のメーカーなんだ」

 

上のリアル会社のように、メーカーとはヒット商品を生み出し続けることこそが会社の存続に繋がるのだと思います。究極の所、

挑戦し続けない限り、終わってしまう

とも??

 

殿村の言葉

リスクが無いところに、ビジネスがありますか!!?

 

私たちは、リアルメーカーや殿村や佃の挑戦から、どんなに小さい挑戦でも一歩踏み出して挑戦しなければ始まらないことを教えられます。

最後に佃社長の力強いお言葉をどうぞ

 

難しいからこそ、やる価値があるんだ!